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#126 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月30日 17:23:49

リッチ さんの発言:

あなたの言うように観察できる事実では、蛇はしゃべりません。
ですから作り話でしょう。そもそも自由意志を持ち出さなくてもここで終了する話なのです。

聖書は絶対に正しいという思い込みが、聖書の蛇は現実の蛇とは違うという思い込みを作り上げてるのです。

絵本でウサギがしゃべったら、それはウサギではないのでしょうか。
私にとってあなたの主張は「ミッフィーはウサギではない。現実ではウサギはしゃべらないからだ。これは背後に天使か悪魔が操作しているのだ」と言ってるのと変わりがありません。

しゃべるウサギと言えば古事記にも因幡の白兎という、ウサギやワニザメが喋るシーンが出てきますが、古事記は昔の日本の政府によるこれが事実であるという見解の書です。
聖書のように正しいと信じている人も過去にいましたし、今でもいるかもしれません。
普通の人は古事記はウサギやワニザメが喋るのでフィクションである、という結論を出すと思いますよ。
これは私の勝手な推測ですから、確かめるなら周りの人に、ウサギやワニザメが喋る古事記は事実かと聞いてみて下さい。

古事記が絶対事実だと妄想している人は、そのウサギやワニザメは神だとか宇宙人だとか言いそうですが。

リッチさんがいう「作り話」、妄想、嘘という考え方もあります。また、古事記に「ウサギやワニザメ」と表現されている存在など、その時代における表現を用いて何かの存在を示したという考え方もあります。
「神だとか宇宙人」「霊的存在」「未確認生物」とか様々な表現がありますね。

リッチさんの「作り話」だという考えは理解しました。ですから、私はレプリカやコピー品と言っているのです。人間の思考能力の範囲で作ったものということになります。

#127 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月30日 17:01:23

ささらほーさら さんの発言:

人間が考えたものではなく、考古学的なものや実験・観察で証明されているものを提示していただければ助かります。
JWの北朝鮮まがいの情報操作に載せられないといいですね。

ささらほーさらさん、こんにちは。

まず、「考古学的なものや実験・観察で証明されているもの」というのは人間が考えたものです。人間の概念です。ささらほーさらさんの「人間が考えたものではなく」というのは無理がありませんか。

私はレプリカやコピー品でしたら、現在、見ることができます、とリッチさんに書きましたが、ささらほーさらさんにとっては無価値なものではありませんか。

人間が考えて表現したもの、文字などで書いたもの、レプリカやコピー品などは全て同じようなレベルのものです。オリジナルと称されていたとしても、そう言われているだけですね。

しかし、私はオリジナルではないと理解した上で、レプリカやコピー品を見て感銘を受けました。但し、私にとってはそうだったというだけの私感です。

#128 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月30日 16:38:23

ジョエル さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

私にとっては絶対的なものと考えています。

土の器のかけら さんの発言:

真の意味での絶対ではありません。人間はとって、人間が知覚できる範囲においては、という意味になります。

あれ、土の器さんご本人が絶対と比較して、相対という言葉を使っていましたので、確認しただけなのですが。今度は「相対的絶対」ですか。

「相対的絶対」というより「普遍的絶対」ですが、私はどちらでも構いません。

人間が書く文章における「絶対」というのは「普遍的絶対」です。ジョエルさんが考えている「絶対的絶対」のようなことはあり得ません。

ジョエル さんの発言:

それはともかく、土の器さんが知覚できる範囲においてそう考えている、以上の科学的根拠があればお願いします。

私が「知覚できる範囲においてそう考えている以上の科学的根拠」を提示することには無理があります。例えば、私が知らなかったことでも、私が考えた瞬間に私が知覚できる範囲になりますよ。

「絶対的絶対」ではなく「普遍的絶対」と同じようなものです。私が知覚でき思考できる能力の範囲が、私にとって全てであり、それ以上のものを示すことができません。

ジョエルさんは私ができないこと、無理があることを要望しています。ごめんなさい、無理です。

#129 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月30日 16:11:50

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

「そう主張されても、失楽園の蛇は霊的存在だという記述は聖書にはかかれていません」「聖書中、蛇が霊的被造物であると明文化されていない」ということですが、 啓示12章9節と20章2節で、「初めからの蛇」として言及されています。これはサタンが,エデンにおいて女と交信した蛇であろうと考えられています。

「初めからの蛇」はサタンの狡猾さを象徴して蛇に例えているんだと思います。「あいつは初めからの鬼だ」、とかそういう類。
もし、エデンにいた蛇を指しているのなら「初めからの蛇」なんて表現ではなく、「初めからいた蛇」か「エデンでエバを唆した蛇」という表現でしょう。しかし、実際は「初めからの蛇」です。

リッチさんが根拠とした聖句と同じ聖句に私も注目して、この「蛇」が霊の被造物であると結論しました。これもまた「既知」ですから、私がそう考えているという説明です。(創 3:1‐15)

「狡猾さ」「用心深さ」ということから考察してください。
自然界に存在していて動物園やペットショップなどで私たちが直接見ることができる爬虫類の総称であるヘビは、「狡猾さ」も「用心深さ」も持っていません。なぜなら、人間が捕獲され飼育できる生物だからです。また、爬虫類のヘビは弱い生き物で、他の生き物に捕食される側の存在です。

「狡猾さ」「用心深さ」というのは、高度な思考能力です。爬虫類のヘビには高度な思考ができる頭脳がありません。そこで、人間が聞いて理解できる音声と言語を用いて会話でき、狡猾さ、用心深さという高度な思考能力ある持ち主は何かと考えると、人間もそうですが、エデンに存在する人間はアダムとエバに限定されています。したがって、人間以外で高度な思考能力がある被造物ということになります。

エデンにおける「最も用心深かった」という属性の被造物は何かということを考察します。これはジョエルさんへの答えのように、人間が知り得る範囲においてという限定がありますが、未知なる存在も含めてください。


リッチ さんの発言:

そして、新世界訳聖書の創世記には、蛇は霊的存在だと言及しておらず、「さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった」と書いています。

すべての野獣に分類されている中のそのうちの1つだと明文化されています。天使や悪魔として描かれていません。
もし、自由意志を持っていたり言葉を話していても野獣に分類されると主張するのなら、人間も野獣に分類されますが。

一般的な生物学上の種としての存在である生き物という概念では、野獣とは、生態学の見地からは人間に改良された品種としての飼育動物以外の、本来自然界において生息するのが自然な状態である動物全般、野生の動物です。人間は含まれません。

リッチさんのいう意味が「自由意志を持っていたり言葉を話している」能力のある存在が「野獣」とするならば、「人間も野獣に分類されます」ということですね。鋭い指摘です。そうなると次に「野獣」とは何かという疑問になります。(創 3:1)

#130 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月30日 14:48:54

ジョエル さんの発言:

自分が尋ねたのは、聖書的根拠(JW洞察の引用回答など)ではなく、科学的根拠はありますか、ということですよ。お答えできなければ構いません。


>私にとっては絶対的なものと考えています。

という(土の器さんの脳内で生じる)主観的な自覚や知覚は根拠にならない、とリッチさんは指摘されています。

というか、そこは相対ではなく、絶対なんですね。

その科学的根拠が示されていませんが、土の器さんも「私にとっては」と仰っていますので、自分はそう考えている、以上のお答えがなければ、それも構いません。

ジョエルさんのいうとおりです。「自分はそう考えている」ということに付け加える説明をします。

土の器のかけらに等しい私自身が「絶対的なもの」と考えたとしても、それは限界のある人間が宇宙の広さを考えているようなものです。真の意味での絶対ではありません。人間はとって、人間が知覚できる範囲においては、という意味になります。

同様に「永遠に」という言葉もあります。人間は永遠ということを知覚することができませんが、永遠について考えることができます。しかし、人間の考えたと永遠とは真の永遠ではなく、現在の人間の頭脳で考え得る範囲での永遠です。

しかしながら、ジョエルさんが用いている「絶対的」という言葉は、そもそも人間が考え得る範囲の「普遍的概念としての絶対」でないでしょうか。それはどうなりますか。


「科学的根拠が示されていませんが」ということですが、akameさん、ささらほーさらさんなどから「既知」と言われ、不要とされています。ジョエルさんが既知のものでもよろしければ説明できます。人間が考えたもの全ては「既知」です。私はどちらでも構いません。

#131 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 23:17:17

ジョエル さんの発言:

いろいろと続いていますね。

土の器のかけら さんの発言:

1つ目は、ジョエルさんがいうとおり「法則や環境に強制されて」います。とはいえ、2つ目の「選択が他からの強制や拘束を受けてない」ことも可能です。

すなわち、「自分の意志で選び取ったのではない環境」であったとしても、強制や拘束を受けることも、受けないことも、どちらでも可能です。選ぶことができます。但し、これは例外的なので、今は置いておいてください。

聖書解釈からの自由意志あるなしにはお付き合いできません。

ただ可能です、と仰っていますが、その2つ目の科学的根拠はありますか。例外というより、ここがポイントではないかと考えたのでお聞きしました。

まず、私は「但し、これは例外的なので、今は置いておいてください」としました。その上で、ジョエルさんから「聖書解釈からの自由意志あるなしにはお付き合いできません」という言い渡しがありました。

私の気持ちは「はい、わかりました」と差し控えることにしました。

そこで再びジョエルさんから「例外というより、ここがポイントではないかと考えたのでお聞きしました」と問われても、これでは、ジョエルさんへの答えが実質的にできないのではありませんか。

ジョエル さんの発言:

人の選択を無意識無自覚に拘束しうる、すべての因果や法則をご存知の上で、それらに拘束されるかされないかを選べている、と断言できるほど土の器さんの自覚は「絶対」のものですか。

私にとっては絶対的なものと考えています。

#132 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 22:33:49

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

リッチさん、こんばんは。
この蛇は、「爬虫類のヘビ」ではありません。なぜなら、人間に聴こえる声のようなもので会話をしているからです。
獣や飛ぶ生き物、動くもの、魚などは人間の声によって人間とコミュニケーションができません。創世記において蛇と呼ばれているのは霊的存在です。「動物」ではありません。

そう主張しても、失楽園の蛇は霊的存在だという記述は聖書にはかかれていません。
その時から蛇は腹ばいの生物になったという記述から、やはり蛇は蛇です。
爬虫類の蛇でないなら、混乱を避けるために蛇は霊的被造物であると説明されているはずです。

聖書中、蛇が霊的被造物であると明文化されていないのに、しゃべらない設定の蛇がしゃべるのは、蛇が霊的存在だからではなく、ただ単に設定ミスというだけでしょう。

ところで、自由意志の証明はもうしないのですか?

使徒パウロは、霊者が人間の言語を用いて会話をすることを示しています。(コリ一 13:1)エホバ神ご自身も、人間が聞いて理解できる音声と言語を用いてコミュニケーションしています。

そこから導き出した結論が、人間の言語を用いて会話できる能力を持つのは、神、霊的被造物、人間という限定をしてます。

神、霊的被造物、人間以外の未知なる存在についてはわかりません。暫定的に霊的被造物(霊的存在)としています。


「そう主張されても、失楽園の蛇は霊的存在だという記述は聖書にはかかれていません」「聖書中、蛇が霊的被造物であると明文化されていない」ということですが、 啓示12章9節と20章2節で、「初めからの蛇」として言及されています。これはサタンが,エデンにおいて女と交信した蛇であろうと考えられています。(創 3:1‐15)

リッチさん、レプリカでしたら、実際に目で見て実感することができますよ。日本の教会にもあります。


自由意思については、リッチさんは、ささらほーさらさんの「その意味で『自由意志とは言えない』・・・とリッチさんは言われていたわけですよね("^ω^)・・・。」ということですか。

#133 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 21:39:58

リッチ さんの発言:
ささらほーさら さんの発言:

エバもアダムも蛇(JWはサタンと同一視していますが)の存在がなかったらどうなのですか?
全知の神は、蛇に二人を唆すことを許したことになりますがその点はどうなのでしょう?
自由意志も何も、唆させることを黙認しておいて・・・とか思いませんか?

ささらほーさらさんの指摘で今気づきましたが、これも矛盾ですね。
JWの説明によれば、動物は本能によって動くが、人間は自由意志があるので自由に決定を行う事ができる、とありますよね。
動物に自由意志が無いならば、聖書の神は蛇の行為を黙認したというよりも、
神自身が蛇を操作してエバを唆したという事になります。

リッチさん、こんばんは。
この蛇は、「爬虫類のヘビ」ではありません。なぜなら、人間が聞いて理解できる音声と言語を用いて会話をしているからです。(コリ一 13:1)

獣や飛ぶ生き物、動くもの、魚などは人間の声によって人間とコミュニケーションができません。創世記において蛇と呼ばれているのは霊的存在です。「動物」ではありません。

「蛇」という日本語訳は、呼び名、呼称です。ナーハーシュと言いますが、正解な発音ではありません。

リッチ さんの発言:

そして、神は人間には全知を行使しないと土の器のかけらさんが言ってましたが、裏を返せばそれ以外のものについては行使しているという事であり、蛇がどのように行動するかというのは世界創造した時点で神が決定しているのです。

神は人間に高度な意思決定ができる能力を与えていますが、同時に、人間のほかの被造物にも高度な意思決定ができる能力を与えられた存在がいます。それは霊的被造物と呼ばれている存在です。

その霊的存在がどのように行動するかということは創造のときには決定されていたわけではありません。神が、その霊的存在自身が思考し選択と決定し、行動できるようにしました。

#134 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 18:26:00

ささらほーさら さんの発言:

エバもアダムも蛇(JWはサタンと同一視していますが)の存在がなかったらどうなのですか?
全知の神は、蛇に二人を唆すことを許したことになりますがその点はどうなのでしょう?
自由意志も何も、唆させることを黙認しておいて・・・とか思いませんか?

「蛇」(という霊的存在)を神は予見し得たと言えます。なぜなら、神が多くの霊的な存在を創造したからです。その属性も付与しました。神が「黙認」、沈黙していることこそ、被造物に与えられた自由意思です。人間には、蛇に従うか、従わないかという選択が可能でした。

ささらほーさら さんの発言:

また、蛇の質問について、エバは園の「真ん中の木」について応えましたが
蛇は「善悪の知識の木」にのみエバの意識を誘導していますが、そういったことは気にならないのでしょうか?

蛇は何故「命の木」の実については「無いもののよう」に無視しているのでしょう?

ささらほーさらさんの言うように、蛇は敢えて「善悪の知識の木」に誘導しています。以下はよく知られています。

その理由は、「善悪の知識の木については、あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」という神が言った言葉に対して、「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない、と神が言われたのは本当ですか」「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その[木]から食べる日には、あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」という蛇が言った言葉と、どちらを選択するかという問いかけをするためです。


すなわち、神が言った言葉か、蛇が言った言葉か、どちらを信奉しますか、どちらの教えを尊びますか、という選択を求めたわけです。その選択の結果、まず、エバが蛇への崇拝を始めました。


蛇は「命の木」の実については「無いもののよう」に無視しているわけではありません。エホバがアダムに食べることを禁じたのは、「善悪の知識の木」の木の実だけだったからです。

神は「命の木」については、何も言及していませんから、「善悪の知識の木」以外なら、「命の木」を含めてエデンの園に生えているどの木からも取って食べてもかまわないということになります。

したがって、食べてもかまわないという意味においては、「命の木」とその他の木の区別はされていませんでした。これもまたよく知られている概念ですが、私はそう考えています。

後半の質問には別途答えます。「リンクは不要です。読みあきました」「既知」とのことですのでリンクをしません。

#135 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 17:26:04

ジョエル さんの発言:

法則や環境に強制されていますね

選べた、ことを否定しているのではなく、その選択が他からの強制や拘束を受けてない根拠はありますか、という話なのですが

ある程度は自分で選べている、という自覚の有無の話ではなく、「与えられた」環境(つまり、自分の意志で選び取ったのではない環境)が、どこまで(その環境内にいる)自分の選択を拘束しているか、すべての因果や法則をご存知なのでしょうか

こんにちは、ジョエルさん。
ジョエルさんは2つの問いかけをしています。

1つ目は、人間は「法則や環境に強制されています」が、選択が可能であるということを否定しているのではない、2つ目は、人間の「選択が他からの強制や拘束を受けてない根拠はありますか」、ということですね。

1つ目は、ジョエルさんがいうとおり「法則や環境に強制されて」います。とはいえ、2つ目の「選択が他からの強制や拘束を受けてない」ことも可能です。

すなわち、「自分の意志で選び取ったのではない環境」であったとしても、強制や拘束を受けることも、受けないことも、どちらでも可能です。選ぶことができます。但し、これは例外的なので、今は置いておいてください。

現実的には、ジョエルさんのいうように人間の選択が他からの強制や拘束を受けないということは殆ど不可能です。エデンにおける人間の選択は、その最もわかりやすい例です。

#136 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 11:43:49

リッチ さんの発言:

書きわすれましたが、私が聞きたいのは「自由意志はあるのか?」で「相対的自由意志はあるのか?」ではありません。

チョコレートはあるのか? と訊ねているのにチョコレートは無い、準チョコレートならあるよ、と繰り返されている感覚です。
チョコレートは存在しない、と私とあなたの共通理解なら、それで終了なのです。
チョコレートが無いという事実に基いて理論を構築しないとなりません。

そういう意味でしたら、繰り返しになりますが、現在の地球上において、完全な自由意思は存在しません。

それで終了でも構いませんが、リッチさんの最初の質問の原罪の発生についてはどうしますか。人間には不従順を選ぶ能力、拒否する能力が与えられて、意思決定ができました。この意思決定できる能力は何になりますか、という疑問です。

それは、akameさんの根元的疑問諸々スレの始めに問いかけた疑問です。

リッチ さんの発言:

アダムらは、完全な被造物であるという設定なのに、
禁断の実を食べるというルール違反を犯すというのが、まず矛盾ですね。

#137 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 11:31:35

リッチ さんの発言:

自由意思自体が存在しないので、相対的自由意思とやらもしないのです。

意思が肉体に縛られている時点で自由ではありません。「神は自由意志を持っている、だから人間には自由意志は相対的にある」というのは的外れです。
「人間に自由意志があるかどうか」が議題であり神が自由意志を持っていようが持っていまいが問題点には無関係なのですから。

リッチさんの気持ちはわかりました。

私も、「リッチさんが定義している『他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志』は、現在の地球上において存在しません」と答えました。

しかし、人間には不従順を選ぶ能力、拒否する能力も与えられていました。そのため、「禁断の実を食べよう」という意思決定ができました。(申命記 10:12,13; 30:19,20)

それでは、この意思決定できる能力は何になりますか。

#138 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 10:34:50

リッチ さんの発言:

しかし、現在、観察できる意思は、すべて物理的な外的要因によって発生しているため、すべての意思は自由ではないという事ができます。
意思を発生させるためには、肉体という物体が必要で、肉体に拘束されている意思は自由ではありません。

意思を発現させるためには肉体が必要。肉体をもちいずに、かつ外的要因に左右されずに意思を発現させられれば自由といえますが、土の器のかけらさんは、肉体がなかった頃に意思を発現させたことはあるのでしょうか。

そのとおりですね。人間の精神の活動には肉体が必要です。人間は肉体がなければ精神の活動も存在しません。

「意思の発現」は法律用語です。「こうしたい」という特定の効果を望む意思を「効果意思」といいます。この「効果意思」が「意思」が発現しているということになります。

したがって、リッチさんのいう「肉体をもちいずに、かつ外的要因に左右されずに意思を発現させられれば自由」とは、絶対的な完全性がある創造者だけにあります。

リッチさんの表現を「現在、観察できる人間の意思は、すべて物理的な外的要因によって発生しているため、すべての意思は絶対的な意味での完全な自由ではないという事ができます」と挿入するならば、より正確になります。(挿入は黄色部分)


『洞察』第1巻 661–667ページ「完全」を参照してください。絶対的な意味での完全と、他の相対的な完全性について説明されています。もし、リッチさんがサイトを閲覧できない場合は教えてください。


リッチ さんの発言:

善悪の知識の木についての存在と存在理由が知らされたことだけでは、自由意志全般の存在について否定する事にはなりません。
「禁断の実を食べようという発想」という意思の自由性のみ否定される事になります。

そこで、リッチさんのこの理解が正しいということになります。

「自由意志全般の存在について否定する事にはなりません」が、「意思の自由性のみ否定される事になります」。

#139 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 07:11:15

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

「禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になります」というリッチさんの理解で正解です。

それが正解なら、自由意志は存在しません。
そして、自由意志の有無で話題からそれて注目されなくなりましたが、仮に自由意志が存在したら、神は完全な知識を欠いてしまい、全知でなくなります。

リッチさんの自由意思という概念では、「『禁断の実を食べよう』という発想も禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になります」「禁断の実の存在を知らない状態で『禁断の実を食べよう』という意思が発生しないといけません」ということですね。

それでは、創造主によって、善悪の知識の木についての存在と存在理由(レゾンデートル)が知らされたことは、自由意思の存在を否定する、存在しないということになりますか。(創世記 2:16,17)


リッチさんは、『洞察』第1巻 661–667ページ「完全」『塔10  11/15』22ページ 読者からの質問『塔08  10/1』27ページ 「アダムは,完全であったのなら,どうして罪を犯したのでしょうか」などを参照できますか。もし、参照することが可能でしたら、引用を省略し説明を短くできます。


尚、書き込みを編集し太字強調にしました。文章の改竄はしていません。

#140 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月29日 06:50:27

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

これからは「制限された自由意思」を「制限された(自由な)意思決定」という表現にしましょうか。

それはいけません。「自由意志」と「意思決定」では意味が違うからです。
「自由意志」では都合が悪くなるからでしょうが、すり替えようとするのをやめてください。

そうですね。「意思決定のプロセス」という言葉もありますから、同じ意味で用いることは相応しくないようです。「制限された自由意思」と「制限された(自由な)意思決定」を区別して説明します。

#141 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月28日 23:16:27

akame さんの発言:

原罪思想はパウロが提唱して、アウグスティヌスが確立したと言われていますが、現代に至るまで諸派による解釈の差異が大きいのも土台が(推察による仮定)であることを示しています。

http://ameblo.jp/caritas-agape/entry-10786330386.html

ヘブライ11:1にある、「明白な論証あるいは事実」とは遠いように感じます。
しかし、推察を進める為にはとりあえす原罪風景である創世記を確認しましょう。

2:15主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

3:5それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 3:6女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 3:7すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

この分析には以下の説明が重要となります。

ローマ5:12
このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

こうした記述だけでも、実に様々な視点による分析が可能となります。

私はakameさんの呼びかけに応じて、様々な視点による分析を試みようとしましたが、akameさんから「それは何百回も聞きましたが、そう思いません」「他の方も既知の内容」「トピの趣旨に沿ってもう少し疑問点と噛み合うように」「聖書信奉的定義の枠に拘らないほうが」「判で押したようなJW解説、宣教のような」などと注意を受けました。

akameさん、迷惑をかけてすみません。

それで、akameさんの議論に無関係な意見かと考えて、こちらに移動しました。要望があれば、引き続き、様々な視点から考察してみたいと思います。

#142 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月28日 20:45:31

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

人間の「自由意志」には、同時に責任を生じさせられています。そのために神の律法による導きがあります。神の律法に違反するとどうなるかも人間に示されています。したがって、自由意思の行使は制限されていると言えませんか。

言えません。
それは自由意志の行使が制限されるというよりも、行動をルールで制限しているだけで、なにかしようという意思が発生する事自体を制限しているわけではないからです。

リッチさん、お返事ありがとう。

リッチさんの「行動をルールで制限しているだけで、なにかしようという意思が発生する事自体を制限しているわけではない」という理解で正解です。

先の書き込みの結語の方で答えていますが、実行行為の結果責任によって人間には意思決定するときに制限がかけられることになります。付け加えれば、「制限された意思決定」です。

これからは「制限された自由意思」を「制限された(自由な)意思決定」という表現にしましょうか。

意思決定のプロセスについては、「意思決定」と「実行行為」にも過程があります。犯罪の成立する構成要件です。必要があれば、別途、一緒に考えましょう。

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

「制限されている」ものは実行行為も、リッチさんのいう「意思の発現」も含まれているでしょうか。(リッチさんのいう「意思の発現」を意思決定プロセスの一部とします)
しかし、「禁断の実を食べようという発想」ができたということは、発想するだけ、考えるだけならば制限がされていなかった、ということになりませんか。

自由意志を制限している誰かが実在するのかどうかはわかりませんが、意思が発生するのは物質の物理運動上の結果にすぎないと考えています。物理運動の因果に縛られて発生する意思は自由ではありません。
「禁断の実を食べようという発想」も禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になりますし、生理学的には食べようという意思によって体が動いたとしても、前に書いたとおり意思する前にはすでに体が動き出しています。

自由意志ならば、禁断の実の存在を知らない状態で「禁断の実を食べよう」という意思が発生しないといけませんし、身体が行動に移す前に意思が発生していないとなりません。

「禁断の実が存在するという外からもたらされた知識に影響されて初めて発想が可能になります」というリッチさんの理解で正解です。あらかじめ、善悪の知識の木についての存在と存在理由(レゾンデートル)が知らされました。(創世記 2:16,17)

「食べようという意思」決定については、そこが重要な問題です。そこには、複雑な意思決定のプロセスがあります。

尚、存在理由(レゾンデートル)は、善悪の知識の木が存在する理由という意味です。

「自由意志ならば、禁断の実の存在を知らない状態で『禁断の実を食べよう』という意思が発生しないといけません」というリッチさんの疑問も併せて、一緒に考えていきたいと思います。

akameさんのトピで書いたように、リッチさんの疑問は私も考えたことがあります。答えることができるのはその経験があるからです。

#143 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月28日 17:40:16

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

アダムに神から与えられたのは限界内での制限された自由です
ですから、アダムに与えられた「相対的な制限された自由」について検証するのはいかがですか。

論点をずらさないで下さい。今検証しているのは、「自由意志」の有無であり「相対的な制限された自由」の有無ではありません。
それに、「自由意志」と「自由」では意味が違います。
「制限された自由」というのは、意思を制限しているのではなく、行動を制限しています。

「制限された自由意思(←矛盾していますが便宜上使用)」になると、意思の発現自体が制限されるという意味になり、たとえば「禁断の果実を食べようという意思」が制限されたら、禁断の実を食べようという発想自体がわかなくなります。

便宜上、「相対的な制限された自由」または「制限された自由意思」と表現していただきありがとうございます。「限定された完全さ」という用語もありますが、これも便宜上も使用すると思います。多くの問題がありますが、少しづつ調整していきませんか。

リッチさんと討議していて、もしかしたら、言葉の定義づけ、用語の意味の理解が異なるのではないかと感じました。リッチさんが他者とのコミュニケーションとして用語の定義に国語辞典を用いる場合、一般的に多くの人々に使用されている広辞苑がよいと思います。しかし、私は他の辞書でも構いません。その場合、「goo辞書」というように付記があると調べることができます。

この言葉の問題は、聖書を読む上で大きなトラブルとなっています。それを完全に解決することはできませんが、解決に向けて近づけることはできると信じています。それでよろしければ、以下も引き続き読んでください。


「制限された自由意思」とは、実行行為も制限され、リッチさんのいう「意思の発現」も制限されている意味でしょうか。(リッチさんのいう「意思の発現」を意思決定プロセスの一部とします)

「禁断の実を食べようという発想」ができたということは、発想するだけ、考えるだけならば制限がされていなかった、ということになりませんか。

そこで導かれる結論としてのアダムに与えられた自由意思とは、神の律法に従うかどうかは、人間の思考にプログラムとして組み込まれていたのではなく、自発的なものとして心から生じることになっていた、考えることができたということになります。

人間には不従順を選ぶ能力、拒否する能力も与えられていました。そのため、「禁断の実を食べよう」という意思決定ができました。(申命記 10:12,13; 30:19,20)これがリッチさんの疑問の1つへの回答です。

リッチさんの質問に分けて答えています。もし、飛ばしていたら、再度、質問してください。


人間の「自由意志」には、同時に責任を生じさせられています。そのために神の律法による導きがあります。神の律法に違反するとどうなるかも人間に示されています。したがって、自由意思の行使は制限されていると言えませんか。

神の律法では制限要件を公告されていますが、実行行為は制限されていません。それなら、言っているだけ書いているだけの制限なのかと言えますか。そうではなく神の律法に実効力がある理由は、結果責任を生じさせていることです。実行行為の結果責任によって人間には意思決定するときに制限がかけられることになります。付け加えれば、「制限された意思決定」です。

聖書のローマ6章23節には「罪の報いは死です」と記されています。(創世記 2:17)そこで、どうしますか、実行行為をしますかという問いかけになります。ここから先は私個人の感じ方になりますから、リッチさんの要望があれば書くことにします。

#144 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月27日 19:16:04

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

リッチさんが定義している「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」は、現在の地球上において存在しません

と、あなたも認めていますが、現在の科学的見解では自由意志は存在していません。

JWの説明では原罪の発生の説明には「自由意志」という言葉は用いられますが、「拘束された自由意志」と修飾語のついた言葉は用いられていないので、
「『アダムは拘束された自由意志を持っている』なら通るよ」という主張は検証する命題がすり替えられているのです。

私は当初、「相対的な」「制限された」「神から与えられた限界内」という表現を用いていましたが、リッチさんが示したgoo国語辞典からの引用に準じて「拘束された」という表現をしました。
JWでは、「相対的な」「制限された」「神から与えられた限界内」などの表現が多く用いられています。

リッチ さんの発言:

検証すべきものは
「アダムは自由意志を持っている」という命題であり「アダムは拘束された自由意志をもっている」ではないのです。

あなたも認めていますが、自由意志は科学的事実から現実に存在していません。
ですから、「アダムは自由意志を持っていた」という事は現実においては間違った事だという事です。

アダムに神から与えられたのは限界内での制限された自由です。(イザ 45:9; ロマ 9:20,21)ですから、アダムに与えられた「相対的な制限された自由」について検証するのはいかがですか。

#145 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月27日 18:47:31

リッチ さんの発言:

自立神経を自分でコントロールできた所で、相対的自由というものが存在するという証拠にはなりません。もちろん自由意志の存在の証拠にもなりません。

前に書いた、手を開こうという意識が発生する前にはすでに脳が手を開く準備をしているのと同様に、「今からコントロールを行う」という意識が発生する直前に、すでに脳が自律神経をコントロールするための準備をしているためです。

自律神経は末梢神経で、意志とは無関係に作用する神経です。脳から切り離された状態でも拍動があります。生命の発生においては脳ができる前から拍動しています。
リッチさんに明らかな理解の間違いがあるので一応訂正しましたが、私の例えが不適切でした。

#146 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月27日 18:33:19

リッチ さんの発言:
土の器のかけら さんの発言:

このように制限された自由意思、拘束された自由意思が存在します。

「制限された自由意志」「拘束された自由意志」はどちらとも矛盾した語句です。

そもそも自由の定義は
<《名・ダナ》他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること。goo辞書より>
であり、対義語は束縛ですから、束縛された自由というものはなりたたないのです。
制限されたり拘束されつつ発現している意識は、「拘束された自由意志」という単語ではなく、単に「拘束された意思」としか言いようがありません。

リッチさんが言うように、単に「拘束された意思」と呼ぶとするなら、拘束されていない、または制限されていない、自発的にコントロールして意思決定できる領域はどうなりますか。それも「拘束された意思」「束縛された意思」になりますか。

リッチさんは呼吸をコントロールして水の中で自由に泳ぐことができますか。それは完璧に泳げることを意味しませんが、制限されているからと言って、リッチさんの自由意志は何も発揮することができませんか。

リッチさんの言うように自由意志が発揮できない領域がありますが、しかし、自由に決定できる領域もあります。
質問をひとつひとつ分けて答えます。

#147 Re: 親睦・相談 » 投稿者へのご意見箱~議論に無関係な意見はこちらへ~ » 2017年01月27日 11:55:18

リッチ さんの発言:
イザ 45:9 さんの発言:

リッチさん、人間が持つ自由は制限された相対的なものですから、神のような絶対的な無制限の自由ではありません

と書いていますが、その相対的自由が存在する科学的証拠はありますか?

リッチ さんの発言:
イザ 45:9 さんの発言:

科学的証拠として一例をあげると、人間の身体能力などはいかがですか。人間の身体能力はかなりの制限を受けていますが、同時に自由意思を行使することもできます。

身体を動かす事が自由意志の存在の科学的証拠になりません。
脳科学の分野の話になりますが、たとえば「手を開こう」という意思が内観で発生したと同時に手を開くとします。
主観的には意思の発生と全く同時期に手を開いたように感じますが、実際はそうではなく、手を開くため筋肉を動かすべく準備電位が脳内で発生した時間と、意思の発生した時間にはタイムラグがあるのです。
イザさんはおそらく、意思の発生の直後に手を開いたと思われるでしょうが、現実では身体が動き始めた後に意思が発生しているのです。
意思と同時に体が動いたというのは錯覚にすぎず、それは脳が同時期に行っているように感じるよう編集を行っているからです。
統合失調症などになると、この意思と身体の同期機能が失われる事があり、そうなると、そう行動しようと全く意思していないのに気がついたら行動していた、という事が多発し、重度になると、意思と身体の動きが噛み合わず、歩行困難になったりします。
統合失調症までもなくとも、軽度な「気がついたらやっていた」という事は誰にでも起こっています。
気がついたら鼻を触っていた。気がついたらリモコンでチャンネルを変えていた、気がついたら掻いていた……など、無意識的な行動をした事がない人はいないでしょう。

自分の体が先に行動しているというのに、その行動を自由意思で操作しているという事はできません。

リッチさんの質問は「相対的自由が存在する科学的証拠はありますか?」ですね。リッチさんの「身体を動かす事が相対的な自由意志の存在の科学的証拠にはならない」という立証には、不随意運動、実行機能障害、錯誤などが入り混じっています。
そこで、人間の身体能力について、もっとシンプルに考えてください。

リッチさんは呼吸数を自発的に決定できますか。呼吸を止めることができますか。自発的にコントロールして決定できますね。それでは心拍数はいかがですか。呼吸より自発的な決定が難しくなります。
なぜなら、心拍数は自律神経によって調節されているため、自分でコントロールできないからです。とはいえ、自律神経を自発的にコントロールするのは難しいことですが、トレーニングによって自分でコントロールできなくもないようです。

このように制限された自由意思、拘束された自由意思が存在します。よく知られている例え話を拝借しました。

(イザ 45:9をユーザ登録し「土の器のかけら」としました)

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